『未完の対局』は國(guó)交回復(fù)10周年を前に、中日両國(guó)の共同腳本、共同監(jiān)督、共同出演、共同撮影によって制作された最初の映畫(huà)作品である。この作品の制作は、先ず、1978年に李洪洲氏と葛康同氏が『未完の対局』の腳本を書(shū)き、中國(guó)の著名な映畫(huà)蕓術(shù)家、趙丹氏が日本訪問(wèn)の際に両國(guó)での共同制作を提案したことに始まる。この企畫(huà)は、日本映畫(huà)界から積極的な賛同を得て、最終的に北京映畫(huà)制作所と東光徳間株式會(huì)社が合作の形で撮影することに合意した。以下はそのあらすじである。
1924年、江南の囲碁の王者?況易山は日本の棋士?松波麟作と北京で対局していたが、勝負(fù)が付かないまま、況易山は官憲に逮捕される。後に彼は松波によって救出されるが、対局を続ける機(jī)會(huì)を得ないまま、松波は日本に帰國(guó)することになる。日本へ発つ前、松波は況易山の子?阿明を日本に連れて帰り、棋士として育て上げたいと況易山に申し出、況易山は中國(guó)囲碁の振興に盡くしてもらいたいという気持ちを込め、「奮飛」と書(shū)かれた家伝の扇子を阿明に託す。日本での阿明は父親の教えを忘れず、めきめき頭角を表し、盧溝橋事件後、外國(guó)人居留者の身分で日本囲碁界の最高位「天聖」位を獲得する。日本軍部は彼に日本に帰化するように強(qiáng)いるが、阿明はこれを拒絶する。後に松波は徴兵されて中國(guó)侵略日本軍の一員として、況易山の故郷である中國(guó)の無(wú)錫を訪れる。松波の上官?尾崎大佐は大の囲碁好きで、況易山に関心を持っていた。やがて尾崎大佐は況易山を探し出し、碁を打つよう命令する。況易山は相手にせず、妻子を連れて無(wú)錫から逃亡しようとするが、妻子は殺され、自分も尾崎に拘束されてしまう。彼は尾崎から松波との対局を強(qiáng)いられるが、死んでも従わないことを示すため、その場(chǎng)で自ら2本の指を切り落とす。
戦後、息子を捜して日本を訪れた況易山は、阿明が死んでしまったことを知り、松波が裏切ったと思い、憤慨して帰國(guó)する。1956年、日本囲碁代表団の一員として中國(guó)を訪問(wèn)した松波は、阿明の遺骨と血に染まった「奮飛」扇子を攜えて況易山を訪ね、阿明が祖國(guó)に帰って日本軍と戦うために、密航しようとして憲兵に射殺されたことを伝える。
疑いが晴れ、況易山と松波麟作は再び友情を取り戻し、還暦を迎えた二人は32年間中斷させられたままだったあの未完の対局を再開(kāi)する。
『未完の対局』は、1981年1月神奈川県の長(zhǎng)浜海岸でクランク?インした。佐藤純彌監(jiān)督と段吉順監(jiān)督がそれぞれメガホンを取り、中國(guó)の有名映畫(huà)俳優(yōu)の孫道臨氏が主役の況易山を、日本屈指の名優(yōu)である三國(guó)連太郎氏が松波麟作を演じている。中日國(guó)交正常化10周年の際、『未完の対局』は中日両國(guó)で同時(shí)上映されている。
佐藤純彌監(jiān)督がこの映畫(huà)を監(jiān)督した動(dòng)機(jī)は、中日友好にあった。三國(guó)連太郎氏は、「この映畫(huà)の撮影に參加できたことは、生涯で最も光栄なことです。この光栄を子供、孫と世々代々伝えていきたい。日本人と中國(guó)人は手を取り合って、友好していかねばならない」と作品に託した思いを語(yǔ)っている。當(dāng)時(shí)、北京映畫(huà)製作所の所長(zhǎng)だった汪洋氏は、「もし、中日両國(guó)人民の間の友好交流と経済、文化の繋がりを“未完の対局”に喩えるのなら、これこそ真に“永遠(yuǎn)に終わりのない対局”である」と、両國(guó)関係を表現(xiàn)している。
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