日本文壇の大御所といわれる井上靖氏は1907年に生まれ、大學(xué)在學(xué)中に創(chuàng)作活動(dòng)を開(kāi)始し、1955年から歴史小説の執(zhí)筆を始めた。井上氏が中國(guó)史あるいは中國(guó)の歴史人物をテーマに書(shū)いた作品には、『天平の甍』、『孔子』、『楊貴妃伝』、『蒼き狼』などがある。これらの作品は広く愛(ài)読されており、井上氏の小説を通して中國(guó)の歴史や文化を知る日本國(guó)民も多い。井上氏が殘した作品は、読者にとって中日友好の原點(diǎn)となりえる不滅の遺産である。
井上靖氏は中國(guó)の歴史、文化をこよなく愛(ài)し、生涯にわたって日中友好と日中文化交流活動(dòng)のために盡くした。1957年から、井上氏は20數(shù)回中國(guó)を訪問(wèn)している。井上靖氏は中國(guó)の古代シルクロードに特に深い思いを抱き、何度も新疆、甘粛などで現(xiàn)地取材をし、古代西域の風(fēng)土、民俗、歴史などをテーマに、『樓蘭』、『敦煌』、『西域物語(yǔ)』、『私の西域紀(jì)行』などの作品を書(shū)いた。『樓蘭』の出版以來(lái)、井上氏は樓蘭遺跡を?qū)g際に訪れることを願(yuàn)い続けていたが、種々の要因のため実現(xiàn)できなかった。著名な日本畫(huà)家、平山郁夫氏が樓蘭遺跡の現(xiàn)地調(diào)査から戻ったと知ると、井上氏はすぐに樓蘭でのスケッチを見(jiàn)せてくれるよう懇願(yuàn)し、平山氏のスケッチを見(jiàn)ることで自らが果たせなかった無(wú)念さを補(bǔ)った。
井上氏は古代中國(guó)の大思想家で教育者の孔子を深く敬愛(ài)していた。彼は70歳の時(shí)に孔子の『論語(yǔ)』を読み始め、たちまちその奧深い內(nèi)容に魅せられ、『孔子』を題名にした長(zhǎng)編歴史小説を書(shū)くことを決心する。この小説を書(shū)くため、高齢の井上氏は癌に蝕まれた體に鞭打ち、孔子の故郷の山東省曲阜はもちろん、孔子が弟子を連れて遊説した列國(guó)の所在地、河南一帯を五回も訪れて、史跡や孔子ゆかりの地を取材している。1986年、井上氏は食道癌の手術(shù)を受け、その同じ年に80歳の高齢で構(gòu)想10年の長(zhǎng)編小説『孔子』に著手する。井上氏は小説に登場(chǎng)する孔子とその弟子の子貢、顔回、子路などの人物を通して、孔子の思想の核心である「仁」を表現(xiàn)した。1989年、この作品が発表されると、日本にセンセーションが巻き起こり、半年足らずの間に60萬(wàn)冊(cè)以上が出版され、その年の日本の年間ベストセラーになった。
井上靖氏は長(zhǎng)きにわたって日中文化交流協(xié)會(huì)の會(huì)長(zhǎng)を務(wù)め、両國(guó)の文化交流の促進(jìn)と友好関係の発展に大きく寄與した。中國(guó)人民はこの中日友好の使者でもある日本文壇の巨星を心から敬愛(ài)している。井上靖氏は中國(guó)の最高學(xué)府、北京大學(xué)から名譽(yù)教授の稱號(hào)を授與された最初の日本人である。
1991年1月29日、井上靖氏は病のため逝去した。中國(guó)のある詩(shī)人は、「生きているのに死んでいるような人もいる。亡くなっているのに生き続ける人もいる。井上靖先生はまさに後者である。井上先生は亡くなりはしたが、先生の提唱した日中友好事業(yè)には、雲(yún)が湧き上がるように後継者が次々と現(xiàn)れる」と、言っている。
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