湖北料理(特に湖北天門、仙桃などの地方)の“盤竜蒸し”という有名料理があるが、この“盤竜蒸し”には伝説がある。
明の嘉慶帝の父帝が臨終の際に二人に皇子を皇位継承者に指名した?;首婴我蝗摔咸旖?、もう一人は湖北に封ぜられて王となっていた。そして、先に北京に到達(dá)した皇子が皇位継承権があると言ったので、當(dāng)然の事ながら天津の皇子をえこひいきしたことになる。なぜなら、天津は北京から百余kmであるのに比して、湖南の天門は千km以上離れていたのだから。
嘉慶はこのことを聞いて焦ったが、この時(shí)、嘉慶が皇帝勅命の重罪犯を裝い、ほとんど供も連れずに北京にはいるという奇策を彼の參謀が思いついた。しかし、その數(shù)日間の行程で、ご馳走を食べることができないことだけが懸案となった。つまり、山海の珍味に慣れている皇子が粗末な食事を受け付けないであろうことが問(wèn)題で、どうしたらよいのか思案に暮れたのである。この時(shí)、王室內(nèi)のコックが焦って委細(xì)かまわず魚(yú)、肉を切って柔らかくなるまで叩き、調(diào)味料を加えて一個(gè)一個(gè)の塊にして蒸篭で蒸した。この塊は“肉を食べているようには見(jiàn)えず”“魚(yú)を食べているようにも見(jiàn)えず”、なお且つ腐りにくかった。こうして、嘉慶はこの塊を食べながら、囚人車に乗り、晝夜兼行で北京に向かって走り続け、通過(guò)する各州県の官僚も馬を換え、車を換えて協(xié)力したので數(shù)日間で北京に到著することができた。そして、天津の皇子はもう皇位を手に入れたも同然と思いこみ、通過(guò)する州県の官僚が“次の皇帝”に諂って催す歓迎宴、送別宴を楽しみ、遂に千km以上離れた天門王の後塵を拝したのである。
嘉慶は自分が皇位を得るのに功績(jī)があったとして、この塊上の食べ物を“盤竜蒸し ”と命名したのである。
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