1956年、中國科學(xué)院の考古學(xué)調(diào)査班が初めてチベット北部で舊石器時代の遺跡を発見した。それをきっかけとして、新中國のチベットにおける考古學(xué)的発掘と文物保護(hù)が同時に展開されることになった。その後、長い歴史を持つチベットの民族文化を早急に保護(hù)するため、中央とチベット自治區(qū)政府は毎年、大量の人力と物力を投入してきた。
1959年6月、チベット工作委が「文物資料の管理を強(qiáng)化する決定」を公布し、そして「中國共産黨チベット工作委文物舊跡?文獻(xiàn)資料管理委員會」を設(shè)立したうえ、その傘下に「文物管理グループ」が設(shè)けられた。チベット文物管理機(jī)構(gòu)が設(shè)置されたあと、文物遺跡を確実に保護(hù)するため、ラサ市人民政府は文物保護(hù)公告を公布した。
1961年2月、郝樹屏、多吉人才郎(ドジツァイラン)、劉志清、屠思華氏らがラサ澎波農(nóng)場北東にある8つの古代墓地を整理した。これは漢民族の考古學(xué)者とチベット族考古學(xué)者がチベット自治區(qū)域內(nèi)に行った最初の共同作業(yè)だった。
同年、ポタラ宮、大昭(チョカン)寺、甘丹(ガンデン)寺および歴代チベット王の墓など8つの遺跡が國務(wù)院によって國家重點文化財保護(hù)指定を受けた。
1972年、國の資金投下によって、大昭寺と扎什倫布(タシルンポ)寺の修繕工事が始まった。
1978年5~9月、自治區(qū)文物管理委員會(以下「文管會」と略)の考古學(xué)調(diào)査グループがチベット昌都(チャムド)地區(qū)にある卡若(カロ)遺跡を試発掘した。これはチベットにおける最初の考古學(xué)発掘として、中國フィールド考古學(xué)のチベット地區(qū)における空白を埋めるものとなった。
1980年1月、同文管會はポタラ宮の対外開放を正式に公表した。同年7月、チベット自治區(qū)人民政府は「文物の保護(hù)と管理を強(qiáng)化する通告」を公布した。
1981年、同文管會は日喀則(シガズェ)扎什倫布寺の強(qiáng)巴(チュムバ)殿の修繕工事に著工した。同年9月、同文管會の山南(ロカ)地區(qū)文管會の考古者が林芝(ニンチ)地區(qū)朗県金東區(qū)でチベットにおいて最大規(guī)模の古代墓葬群――列山墓地を発見した。
1982~1983年、チベット自治區(qū)は重點文化財保護(hù)の指定を受けた昌珠(チャムチュ)寺、歴代チベット王の墓、桑耶(サンヤ)寺、雍布拉康(ユブラカン)、敏珠林(ミンチュリン)寺を修復(fù)した。
1983年、國の資金で、日喀則地區(qū)にある薩迦(サキャ)寺大経堂の修繕工事に著工した。
1984年、同文管會はラサ北郊外から5キロを離れた曲貢(チュゴン)村で曲貢遺跡を発見した。
1985年3月、中國共産黨チベット自治區(qū)委員會と政府は「文物の保護(hù)と管理をさらに強(qiáng)化する決定」を打ち出した。
1986年1月、自治區(qū)文化庁、宗教庁は桑耶(サンヤ)寺修復(fù)指導(dǎo)グループを設(shè)け、桑耶寺の修繕工事を始めた。
同年3月、チベット自治區(qū)文物庁は日喀則の夏魯(シャルン)寺に対する修繕工事に著手し、5月、國から50萬元の資金を投下して、阿里古格(グゲ)王國の紅宮、白宮および壇城殿などの重要な建築物の修繕工事に著手した。7月には、自治區(qū)人民政府が768萬元を投下して、山南桑耶寺中本殿および一部建築群に対し、工期3年の修繕工事に著手した。
1987年、國の60萬元の資金によって日喀則(シガズェ)の夏魯(シャルン)寺の中降殿と一部建築群の修繕工事が行われた。
1988年10月、國務(wù)院は専用資金を計上してポタラ宮の修繕を決め、中國共産黨中央政治局委員、國務(wù)委員?李鉄映氏を名譽グループ長とする指導(dǎo)グループを設(shè)置した。
1989年10月11日、ポタラ宮の修繕プロジェクトが民族の風(fēng)習(xí)と宗教儀規(guī)に基づいてスタートされ、総投資額は5500萬元以上に達(dá)した。
1990年8~9月、中國社會科學(xué)院考古研究所のチベット調(diào)査チームとチベット自治區(qū)文物管理委員會が共同で設(shè)置した共同調(diào)査チームはラサ曲貢遺跡に対する初めての発掘に著手し、発掘面積は500平方メートルを超えた。
2002年6月から正式に実施されたポタラ宮、羅布林卡(ロブルンカ)、薩迦寺のチベット三大重點修繕プロジェクトは中國における建國以來最大規(guī)模の文物修繕工事となり、総投資額は3.3億元に上るものとなった。
「チャイナネット」資料