『朝日新聞』1984年6月23日付け
見(jiàn)出し――「南京大虐殺目撃の中山老」(昭和12年12月、南京が陥落した時(shí)、25歳の中山さんは陸軍戦車(chē)隊(duì)の上等兵として、その狀況をつぶさに見(jiàn)た)
私は整備兵だった。戦車(chē)を修理しながら進(jìn)む道すがら、累々と重なる死體の中にとても戦闘員になれそうにない女性や老人が多く交じっているのを見(jiàn)て不思議に思った。
忘れられないのは南京入城の二日前、郊外の雨花臺(tái)で見(jiàn)た光景。白旗を掲げて來(lái)る中國(guó)人を壕の上に座らせては、日本兵が次々と剣銃で刺し殺していく。一突きでは死に切れず苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、子どもであろうが、見(jiàn)境なしの殺りくが続いた。
4時(shí)間あまりも凝視していたでしょうか。それまでは國(guó)のため、天皇のためには仕方がないと考えていたのが、その日からはああ戦爭(zhēng)はいやだ、と思うようになった。
「チャイナネット」資料